百三十年の伝統が織りなす『薩摩行灯』
はじめに
地域ブランド『薩摩のさつま』の認証品を生み出す作り手の方を訪問し、商品が生まれた背景や風土をお届けするシリーズ。
今回お話を伺ったのは、『薩摩行灯』をつくる鶴田手漉和紙の野元 政志さんです。
丈夫であたたかみがあり触り心地もよい、鹿児島県の伝統工芸品『鶴田手漉和紙』をつかった『薩摩行灯』。
お母さんから受け継いだ、鶴田手漉和紙づくりの先にある想いやその背景とは…。
聞き手:田口(以下省略)
――さつま町でつくられ鹿児島県の伝統的工芸品にも指定されている認証品鶴田手漉和紙を使用した『行灯(あんどん)』。認証品のお話をお伺いする前に、まずは野元さんが鶴田手漉和紙の職人になられた経緯など、これまでの歩みをお伺いできればと思います。
鶴田手漉和紙の歴史は100年以上だとお聞きしたのですが、野元さんは今何代目になられるのですか?
私は4代目でね。はっきりした資料はないんだけど、ずっと遡ると、長男が家に残って次男、三男は西南戦争に行って田原坂で亡くなっているんですよ。名前もちゃんと南州神社に残っている。玉利って兄弟がお袋の方の先祖にあたります。
その長男の子供が初代で、紙漉きを始めたというようになっているので、それが明治25年頃かなって。おおよその始まりの時期がわかったら、ちょうど2023年で鶴田手漉和紙が始まって130年くらいになります。
それでお袋がこっちに嫁いだ時に紙漉きの道具を作ったり揃えてくれたりして、今の場所で紙を漉くようになったのだと思います。
紙漉きをして嫁いだ先は、いわゆる地元の農家さんだった。
それで、農業をしながら冬場の仕事として紙漉きをしたのだと思います。
――130年、、、歴史は深いですね。県内でもそれだけ長い歴史の紙漉きをされている所ってあるのですか?
蒲生町(鹿児島県)では、もうちょっとあるかもしれない。
あそこは藩の島津家が治めていて、問屋があって結構あのあたりは紙漉きが盛んだったようだから、ちゃんとした組織で動いてたんだと思う。
うちの祖父は蒲生へ行き来していたみたいですし、お袋も昭和17、18年頃かな、15歳頃に紙漉きの講習を蒲生の先生から受けていたみたいです。
――蒲生にも紙漉所があるとは知らなかったです。他の和紙と鶴田手漉和紙の違いはあるのですか?
紙質はね、いろんな紙の漉き方よってもいくらか違うし、材料の選別によってもある程度は違ってきます。紙の大きな違いっていうのはそんなにないと思うんですけど、地域によって変わってくるかな。
和紙はいろんなものの原料からできるんですよ。
からいもの繊維でもできるし、桑でもできるし、うまく繊維を抽出できれば紙ができるんです。
ここ鶴田手漉和紙の原料は梶を使っているのですよ。
――材料に地域性があるってことですか?
地域性があるね。
それと漉き方にも地域性がある。
だいたい道具は一緒だけど、私は一本吊り(漉くための枠を1箇所で吊ってある構造)で漉いていましたよね。地域によっては、3箇所や4箇所吊って漉くところもあります。
漉き方、漉くリズムっていうのが地域によって違うんです。
その地域の人たちが、ある程度自分たちなりに工夫するんだと思います。
例えば一番最初に漉いて取る水を「化粧水(けしょうみず)」って言うんだけど、その水の取り方が、うちなんかパッと漉くってしまうけど、美濃ではゆっくり漉くってさーっと流す、そういう漉き方です。漉き方そのものが違う。
――その違いは人ですか、それとも地域ですか?
地域だと思う。
梶の原料なんか、切り方も違ったりする。
材料は同じでも、その地域ごとにある程度工夫されて和紙漉きっていうのはできてきたんだろうと思います。
――そうすると、鶴田手漉和紙は野元さんだからこそつくれる和紙なのですね。
ここのものは、鶴田手漉和紙の先祖代々伝わってきた130年来の漉き方だろうと思います。
私はお袋から習ったので、だいたいお袋と似たような漉き方。
リズムの取り方が若干違うにしても、だいたい同じような漉き方をしていると思います。
ユネスコ無形文化遺産に登録されているのは、石州和紙、美濃和紙、細川和紙3カ所ですが、その3カ所を見て回りましたけど、やっぱりどれも違うなと。
――お母さんに習ったとおっしゃいましたが、お母さんは今も紙漉きをされるのですか?
お袋は15歳から始めて今は96歳だから、80年近く紙漉きをしました。
材料を切ったり選別をしたりするのは、体調を崩すこの前までしてくれていたんです。
――野元さんはいつ頃から紙漉きをされているのですか?
紙漉きを本格的にするようになったのは42歳の時。
全然最初は和紙を継ぐことなんか考えてなかったですね。
農家の長男坊に生まれて、もうずっと高校まで家を継ぐもんだと思って育てられたけど、宮之城の農業高校で卒業寸前になって親父が「東京出て行きたければ出て行ってもいいよ」って言ったので、急遽求人探して羽田空港が勤務先の石油会社で働きはじめました。
それから新たに貿易会社で採用決定したら、ローマ勤務って言われて1週間後にはローマにいましたよ。
一時は楽しいけどさ、日本に帰れるんだったら帰ろうと思った。
ずっと生活するにはやっぱり生まれ故郷はいいよ。
それでローマでの勤務を終えた後は帰って鹿児島の岩崎産業に入れてもらい、重富にある大きなゴルフ練習場の初代支配人にもなりました。
――ゴルフ自体が盛んでない時代に、その先端を走られてたわけですね。
今考えてみたらそれが身を立ててくれました。
その後は、もう完全に仕事を辞めて、ちょうど42歳の時に宮之城に帰ってきました。
いずれはね、親の面倒を見なきゃいけないというのもあったし、帰らなきゃいけないなっていう気があったし、長女が小学校に入る時期だったんでこの時期かなと思って。
それから紙漉きをお袋に学びました。
実際に漉いたことはなかったけど、ずっと小さい頃から、和紙漉きの準備だとか原料切るとか、いろんなことの工程を見てきてるので、そんなに抵抗はなかったですね。
――想像もつかないような、さまざまなご経験をされてこれらたのですね。
原材料の準備工程も想像がつきませんが、鶴田手漉和紙の原材料になる梶の木はどれくらいの周期で収穫されるのですか?
1年ごとです。だから冬の今はちょうど刈らなきゃならない時期。その時に収穫して、皮剥いて、乾燥して保存します。
大体、梅の花が咲く頃に梶の皮剥ぎの作業をするんだけど、今年はあっという間に梅咲いちゃってさ、考える暇もなかったですね。
乾燥して保存すると4、5年ぐらいはそのままずっと使えますので、だいぶ溜まってるんですよ。
梶の皮剥ぎなんていうのは昔はね、紙漉きしなくても梶の皮剥ぎをしている人は多かったんです。蒸して皮剥いで皮を集荷して製紙工場に出してたんだと思うんですけど、そういう作業を、この地域一帯の我々の世代以上の方々は経験されてきた方が多いんです。
――冬場の農作物が少なくなる時期にそういうことをして生計を立てていたんですか?あ
そうね。農家は冬場にどんな仕事で現金収入を得ようかっていうことで、麦を作ったり、いろんなことをしてたんです。
その中の一環として、梶の皮剥ぎっていうのをやっていました。
まさに、冬の風物詩ですね。
――その風景は残していきたいですね。
それこそ日本が高度成長するのと同時に、農家の方々でも外で働けるようになったじゃない。
まず、車で移動ができるようになった。
短時間で移動ができるようになったということと、働く場所が近隣にできたりしたことで、冬場に現金収入を得られる仕事って考えたんだと思います。
冬場は山に、1年中使う焚きものを取ってきて、小屋の中に1年ものの焚きもんを積んでた。それも、冬場の仕事だったのかもしれない。
昔はガスなんてなかったからね。
――今は便利すぎる時代に生きていますね。
私もこの歳になったけど、時代が大きく変わったなと思う。
我々が社会に出た時には、まだ掛け算割り算ソロバンだったからね。
インターネットも我々にしてみたらごく最近のこと。
本当にこの50年は変わってきた。
それだけ時代が変わるんだから、毎日進んでいかなきゃいけないんだよって。
新しいものを考えていかなきゃいけないし、継続していくことも考えなきゃいけないし、そういうのは本当に楽しみではあると思う。歴史や土台があるから新しいものを考えられるのもあるだろうし。
――和紙は日常的に使われるものだとお聞きしましたが、認証品でもある『行灯』はどのタイミングでつくられたのですか?
行灯自体昔から使われてはいたけど、電気を使ったものはごく最近のものだと思います。
ここでは私が4代目になって、LEDができてから作った商品ですね。
――それこそ『鶴田手漉和紙』は、どのくらい前に鹿児島県の伝統工芸品に認定されたのですか?
認定を受けたのは、平成元年じゃないかな。
旧鶴田町の時代は「さつま和紙」っていう形で販売してたみたいだけど、県の認定を受ける時に地名を使って「鶴田和紙」にしてくれませんかっていう町からの依頼があって、お袋の時代に「鶴田和紙」っていう形で登録したのが始まりみたい。
それで、私がするようになって、私も後継者として県の認定試験を受けました。
そうしてお袋の「鶴田和紙」から「鶴田手漉和紙」になりましたが今でも名称として「鶴田手漉和紙」を使ったり、「鶴田和紙」を使ったりしています。
――3代目と4代目の違いがあるという意味でも、こういった伝統は守りつなげていかないともったいないですね。
世代のお話になったところで、薩摩のさつまは次世代を担う子どもたちに向けた取り組みを行っているのですが、野元さんから地域や子どもたちへ向けた”想い”などありましたら、ぜひ聞かせていただきたいです。
伝統工芸と呼ばれる分野は、どんどん減っていくのだろうなと思います。
要するに、生計が立たないんだ。これだけではね。
県や町が販売の手伝いとかはしてくれるけど、やっぱりどうしても維持できないっていうのはある。
それを補助して存続させるのもどうなのかっていう気もするけどさ、ただそういう面でもおそらく減っていくでしょう。
これはもう鹿児島だけじゃなくて、全国的にそういう傾向にあるし。
ただ、和紙を一つのきっかけで、いろんな工芸品に関心を持ってもらえたらなと思って、和紙漉き体験を受け入れています。
――いいですね。まず、工芸品を知るきっかけをもっと増やしていけたら。
子どもたちに対しては、ただ紙を漉くだけじゃなくて、いろんな説明をしたりする中で、みなさん和紙だけじゃなくて、他の工芸品にも興味を持ってくれればという想いで話をしています。
本当に、まずは知るきっかけだと思います。
鹿児島だけじゃなくて、いろんなところに観光に行った時にもその土地の工芸品を見てくれる。そういう関心がいくらかでも湧いてくれれば嬉しいです。
――すごく素敵なお話だと思います。もの自体やその歴史から読み取れる背景を知ると、そのものの魅力がより一層浮かび上がってきますしね。
工芸品はいろいろあるのですけど、その中でも手漉き和紙って作る過程に入り込みやすく体験しやすいものなのかなと思いますし。
そうだと思います。和紙はまだある程度体験できる工程や商品としての幅があったり、自分たちで使えるものにも加工ができたりするので、そういう面では触れやすいものかもしれないですね。
――工芸品の中でも、すごく身近なものなのかもしれませんね。
地元の小学校のように自分で卒業証書を漉いたっていうのは一生残るものだと思うし、その中でやっぱりね。これが工芸品なんだっていう気持ちだけでも持ってってくれれば、どこかで工芸品を見てくれるんじゃないかなという気もしますけどね。
――やっぱり知る機会っていうのは私たちブランドをお手伝いさせていただいている身としては、どんどん発信させていただきたいです。本日は貴重なお時間をありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございます。
※取材:田口 佳那子(さつま町地域プロジェクトディレクター)
撮影:青嵜 直樹(さつま町地域プロジェクトディレクター)
認証品のご紹介
鶴田手漉和紙『薩摩行灯』
江戸時代初期、薩摩藩家老、島津久通の奨励の下、作り始められた和紙。鶴田手漉和紙は明治25年創業で、鹿児島県伝統的工芸品に認定。現在4代目が伝統和紙を使い、さつま町の風土を伝える薩摩行灯を製造している。
一. 紙質にこだわった薩摩行灯は、自家栽培の梶やトロロアオイを原料に、身近にある四季の草花で模造造形し、さつま町の季節を感じ、和紙を通した光に心安らぐ逸品である。
二. 毎年近隣の小中学校等の児童生徒が自身の卒業証書を漉く、紙漉き体験を受け入れ、伝統工芸文化に触れてもらう活動にも力を入れている。
三. 日本の手漉和紙は2014年にユネスコ無形文化遺産に登録された日本の伝統技術である。和紙の歴史は1400年ともいわれ、一千年の月日を経た和紙も存在する世界に誇る紙である。