意地でも赤『大安吉日トマト』
はじめに
地域ブランド『薩摩のさつま』の認証品を生み出す作り手の方を訪問し、商品が生まれた背景や風土をお届けするシリーズ。
今回お話を伺ったのは、『大安吉日トマト』を作る市囿庄一さんです。
薩摩のさつまの認証事業者であり、その活動を推進する中心的なメンバーでもある市囿さん。トマトづくりにおいても地域ブランドにおいても、本質はあまり変わらないとお話されます。
こだわりの赤。そして”意地”という強い言葉に込められたその想いとは…。
聞き手:青嵜(以下省略)
――さつま町でトマト農家を営んでいる市囿庄一さんの認証品『大安吉日トマト』。縁起がよさそうな名称に輪をかけて福々しい真っ赤な色が特徴的なトマトですが、認証品のお話の前に、まず市囿さんが農業に携われるまでのお話を伺えますか?
元々親父の代からトマト農家をやっていたんですよ。
この時吉(ときよし)っていう地域一帯に、その当時で30件くらいトマト農家さんがいたのかな。もうだいぶ減って今は10件くらいしかないんですけど。
それで、高校を出て農大に通って帰ってきて、そのまま家の手伝いをしながらですね。
そしたら、一緒に事業としてやらないかっていう地域の先輩方の声があったんですけど、最初は断っていたんですよ。
それでまぁ色々あってやることになるんですけど、最初は複数人でやり始めたことを26、7歳くらいのときには結局一人でやるようになったんです。
でも全然利益が出なくて、もう1年目から大借金でですね。
1年間運転すると赤字になるんですよ。作っても作っても。
すごい借金だし、まだ払い終わってないしっていうのもあるんですけど、すごく苦労したんですよ。
それこそ、1年目はなんとか工面して支払えたんですけど、2年目も何百万と足りなくて。それでも工面しての繰り返しで。
それで、3年目からはいよいよ、もうこれはやればやるほど赤字だってことになってですね…。
その当時は、農協さんから資材とか油とか肥料とかを全部仕入れて、生産した商品は全部農協さんに卸す仕組みだったんですけど、仕組みから全部を見直して、自分自身できちんと作ってきちんと売ろうと思って行きついたのが、この大安吉日トマトです。
今でこそ地産地消という言葉があるし地元産のものが地元で買えるようになりましたけど、その当時は、地元のものが地元で今のように売られていなかった時代で、トマトもさつま町産は大阪、福岡、京都、名古屋とかの県外に全部出て行っていたんです。
それで、いろんな活動してるとイベントとかでテーブルに商品を並べて販売することがあるんですよね。
そんなときに、なぜ地元のものが地元で買えないんだと思っていて、そういった声も常々聞こえていたんです。
僕も地元のものを地元で売りたいと思っていたんですけど、でも、業界の仕組みの中で独自に地元で販売することはルール違反になってしまうんですよ。
でも、それを全部破って仕入れも販売も自分でやると決めたんです。
大騒動でしたけどね。
それでもまあ、やっぱりしっかり自分で売ろうと思って、今のように「大安吉日」の札を付けて、しっかり真っ赤になってから収穫して、ほぼ県内で販売する形になったのもまだ10年経ってるか経ってないかですから。
――そうなのですか?
今は若干さつま町の農業って明るく見えてるかもしれないですけど、昔はすごく暗かったんですよ。
色んなものがどん底だったし、どうやって食べていこうか、みたいな。
どこの集まりに行っても文句ばかり言う人が多かったんですよ。
それだけ全体的に底冷えしてるし、後継者はほとんど誰も帰ってこない。
人もいない、お金もない。
そういう中だったから1人でガンガンやるしかないと。
お金は使えないからなるべく安く東京まで行って展示会見に行って、1日中東京ビッグサイトをずっと歩いたりとかやってましたよ。
どうやればうまい形で販売ができるのかですね。
おかげで知り合いが増えて寄って来てくれる人も増えたので、少しずつうまく回り出して今の形ができたんです。
でもこうなるんじゃないかな、みたいな展望はちょっと前からありましたよ。そういう時代になるんだろうなみたいな。
でもそれ以前に、圧倒的にあったのはニーズです。
「地元の昨日収穫したトマトを食べたい」という声ですね。
1週間前とかのまだ青いうちに収穫して、あっちこっち移動してやっとスーパー並ぶようなトマトじゃなくて、「昨日収穫したものを今日いくらですよみたいな形で売ってほしい」と言われることは多々ありましたよね。
――トマトは今のように赤くなった状態で収穫するものではなかったのですか?
やりはじめた最初の頃は、そんな真っ赤になって収穫してアホじゃないかぐらい言われましたからね(笑)
昔は、トマトは青い状態で出荷するのが当たり前だったんです。
店頭で青いトマトが並んで、それを買ってきて家に置いておいて赤くなったら食べるっていう。
――青いまま収穫して、その後に赤くするというのは…味としてはどうなのですか?
赤くなったとしても青臭さが残っていて美味しくないですよ。
真っ赤にしてから収穫した方が絶対うまいんですよ。
だから、意地でも真っ赤にして売ってるんです。
意地ですよ。
そのためには、トマトにとって良い環境を、気温や風、天気とかの状況を見ながら人が作ってあげないといけないんですよ。
いくらハイテクだスマート農業だなんだって言っても、結局現場を見ておかないとですね。
それが農業です。
――意地の赤…まさに情熱の赤ですね。
少し話が戻ってしまいますが、業界のルールはあれど、市囿さん個人が自らの足でを色んなところへ行かれて、見聞を広げて自分自身で売っていくっていうことをされていたお話は、正に薩摩のさつまでみんなでやろうとしていることの原点のように感じます。
そのやり方に対して最初からみなさんの理解はあったのですか?
今一緒に色々とやっている仲間の中にも、その当時はけっこう「売れない売れない」って言ってた人もいて、その度にいつも「真面目に売っていないからだ」って言っていたんです。
でも「小売りで売っても売れない」と言うから、「ちゃんと売っていないくせにそんなこと言うな」と。
「でも、どうやっていいかもわからん。1人でやっていたところで売れない」と。
それで、そういった仲間と一緒にパッケージのデザインとかを考えたりとか少しずつそういう動きがあって、それでさっき話した地域の社会的な動きと良い形で重なるタイミングもあって、それからうまく回り始めてですね。
今、どんどんどんどん頑張ってやっています。
やっぱり、積極的にそういうことに気付いてもらえればですね。
農業がダメだとか、商売がダメだとかじゃないですもんね。
――今の時代は特にそうですね。
だから、お手伝いになれればっていうのもあるし、僕は僕できちっとしたいし。本来の生業がありますからね。
そういった意味では、薩摩のさつまも生業を邪魔するものではなくて、むしろ広げていく方だし、そういったことをやっていきたい活動ですから。
――やっぱり薩摩のさつまは、もちろん地域ブランドという形ではありますけど、そもそも「なんとかしなきゃ」という、熱量というかムーブメントと言うのでしょうか。そこが核にあるところがこの地域ブランドの大きな特徴なんじゃないかなと思っています。
その塊です。堀之内力三(以下、力三)にしても僕にしても。
それですから。「なんとかしないと」でしたから。
それで、まあ力三が町自体をどうにかしたいって言い出したときは、うん、そらそうだな。でも厄介だなと。大事になりますから。
で、結局大事になりましたけど(笑)
でも、大事になったことで、事業者だけでなくて運営の事務局を担ってくれる人も現れて、きちっとお手伝いや支援もらえる形になったから、今、こういう形まで出来てきてるし。
本当にいい形にはなってきていますよね。
いい形になってきてるし、継続するのも結構パワーを使いますからね。
――本来の生業を続けながら、ですからね。
薩摩のさつまでやっていることも、本業みたいなもんですけどね。
僕らからすると。物売るための1つですから本業みたいなものなんです。
けど、そう見てくれない人はいっぱいいますからね。
以前から、こういう地域ブランドをやって失敗してきたじゃないかという批判が多分1番大きかったと思うんですけど。
適当にやるつもりなんかないし。
簡単に言うと、自分たちが作ったものをきちんと売っていくっていうことを継続するだけの話ですから。
――本当に仰るとおりだと思います。
もちろん、人が増えて、業種も年代も異なれば運営には専門的な技術が必要になる場面もあると思います。
ただ、そもそも市囿さんにしても堀之内さんにしても、他の事業者さんも生業こそ違えど、そこでやることの本質とは大きく変わらないのかなと。
自分で売って、外でしっかり発信していこう、ということですね。
単純にそれぐらいの話だと思うんです。
単純なことですけど、そこがしっかりできるのとできないのとでは大きく変わる時代ですから。
だから、まぁそこでお手伝いももらえるし、予算もきっちりと組んでいただけているし。良い時代になりました。
――続いて、未来の話についてもお伺いさせてください。
薩摩のさつまには次世代の支援といった未来へ向けた取り組みも含まれています。その”未来”という今後に対して、さつま町や子どもたちがどうなってほしいといった想いはありますか?
いつも色んなところで同じことを言っているんですけど…大抵嫌われるんですよね(笑)あまり土地にこだわって行動するな、みたいなことを言っているから。
若いうちから、ちゃんと世界を広く見て、世界はこうなんだというのを見ていれば何処ででもやっていける時代だから、頑張ってほしいなということはあるんですよ。
僕も実際のところはできなかったこともありますけど、今はとくに地元に残ってどうこうという人が多いんですよ。
そんなことばかり言っていると、何だろう…つまらない人が増えてくる感じですね。
だから、将来僕らが高齢になったとき、色んなことを知ってる人がいっぱいいた方が楽しいです。
もしまた、この町に戻ってくるにしても、色んなことを知っている人がきちっと広い意味で物事を捉えたり語れたりできる人になって戻ってきた方が絶対楽しいので。
そうなってほしいなというのがありますよね。
とくに若い人たちは、あんまりこだわらずに色々な経験をしてほしいですよね。経験というか、ただ歩いて回るだけでもいいんですけどね。
――片肘張らずに、ということですよね。
そうです。無理に20代で仕事して頑張らなくてもいいんです。
それこそ体を壊したりまでして。
きつくなったらきつくなったで旅行するとか、早いうちに自分の視野を広げてやっていけばいいんじゃないですか。
仕事は、30歳ぐらいから始めるくらいでちょうどいいと思うぞと。
もう一回勉強したくなったら大学行けばいいし、夜間学校入るとかでもいいし。
僕は、20代の若いころから仕事しないといけない、みたいな時代だったから早くからやったけど今になってみると30歳ぐらいまでプラプラしていろんなとこを見てね。
仕事しながらあっち行く。こっち行くみたいな(笑)
そうやって、自分にどういう可能性があるんだろうか、みたいなことを探した方が得だと思うんです。
――向き不向きも分からないですしね。
やってみないと分かんないし失敗しても全然いいし。若いうちだったら。
若くなくてもまだ失敗してもいいし(笑)
なので若い子たちは、とくに勉強したくないと思ったらしなくていいし、その代わり何かしらやっていけばいいと思うんです。
家にずっといるはちょっとつまんないと思ったら、僕だったら絶対すぐ海外行くぞみたいな。言葉分かんないけどどうにかなるぞと(笑)
妙にきっちりする必要なんてないんですよ。
チャランポランでいいと思うんですよ。
むしろ、そのときにチャランポランでいた方ができることってあるじゃないですか。
だから逆に若い子には無理するなって言いたいですよね。
仕事しろとか。ちゃんとしろとか。
最初からちゃんとしようとするから踏み外してどん底に落ちていきますもんね。取り返しがつかないところまで行ってしまう。
なんか、すごくちゃんと仕事しよう、みたいな構えが一時期流行ってましたけど、そういうことはいらないんじゃないかと思っています。
いろんな職場でもいいし、いろんな国でもいいし、いけないことはないんです。将来はそういう人がいっぱいいた方が楽しいですよね。
――明るい未来ですね(笑)
今日は貴重なお話をありがとうございました。
割とみんなきっちりしようとしますからね。
嫌いなんですよ。そういうの(笑)
こちらこそ、ありがとうございました。
※取材/撮影:青嵜 直樹(さつま町地域プロジェクトディレクター)
認証品のご紹介
市囿庄一『大安吉日トマト』
戦後の高度経済成長の少し前、沖縄にトマトを出荷しようと始まった、地元時吉地区のトマト栽培、厳しい自然環境を相手に長年培ってきた、「百姓の魂」を引き継ぐ「真っ赤なトマト 大安吉日」生産農家です。
一.「真っ赤なトマトを食べたい」というニーズにお応えして、本当に真っ赤に熟れた果実を収穫し、なるべく早くお客様にご提供出来る様、その日のうちに出荷出来る体制をとっています。
二.「大安吉日」は奈良県ナント種苗(株)が当圃場で品種試験を行い、世に出る前から長年付き合ってきた、病気に強い、そして何より、その名が印象的な品種です。
三.安全安心で美味しくなる様に、満足していただける様に、地元の農家が切磋琢磨して、こだわりの農産物を作りだしています。「大安吉日」も負けない様に、頑張って生産しています。